並木通りの歴史-裏通りの再生-

◆裏通りの再生◆

 

並木通りは、本通り・金座街といった広島一番の商店街の裏に隣接した立地的にも恵まれている通りでありながら、旅館や割烹、問屋等の合間に僅かばかりの小売店が立ち並ぶ寒々とした裏通りにすぎませんでした。
「あそこは暗いから、夜は怖い
という会話を耳にすることもありました。
「何とかしないと、このまま放っておけば、街は滅びてしまう」「何とかしよう」という叫びは、うねりとなり、誰言うこともなく、同じ思いの仲間が集まりました。

 

◆掃除からスタ-ト◆
「名前をつけただけでは街はよくならない。」昭和32年に運河を埋め立て道路にした関係から、道路自体が貧弱でした。「まず道路をよくしよう。」私達は市役所に出かけ、職員と話し合ったが、「道路は他にもあり、これといった特徴もない上に、地元の結束だってない。そんなところが何を言っているのか。」と相手にしてはもらえませんでした。
私達は途方に暮れましたが、「まず、掃除をしよう!」という声に、早速、ほうきを持ち、通りの掃除から始めました。


◆「一店・一テ-マ」
”自分達でやるしかない”この事がわかった時、することはいくらでもあることに気づきました。店の数は10軒に満たず、通り全体の建物も老朽化していたことから、まず大家に働きかけ、ビル化を促す一方、店舗の新装、改装にあたっては、他の商店街、大型店との競合を避けるために、前者にはない特徴を打ち出す必要性を感じ、みんなで話し合い”一店・一テーマ””一店一商品”の考え方を基本とした店づくりを促しました。こうした方針に沿ってモデル的な店舗を誘致、あるいは業種変更、業態変更を繰り返して行きました。
 建物の建て替えに際しては、通りに連続性を持たすため、1・2階、あるいは3・4階までを店舗として、それ以上の部分を居住空間、あるいは賃貸マンションとするよう説得しました。”住みたくなるような商店街””衣・食・住”のある街を全面的に打ち出し、特に住環境の整備い重点を置きました。

◆お化粧直し◆
 「いいムードになってきましたね。道路をきれいにしませんか」と行政の方から声がかかりました。昭和54年7月、市の指導を受けながら「新川場商店街振興組合」(現在の並木通り商店街振興組合)を結成。8年の歳月を経て、昭和62年12月5日、建設省のC.A.Bシステム(電線類の地下埋設)を柱とした、道路整備事業が完成、”リニューアル・オープン”しました。

 

並木通り写真館

並木通りには、昭和30年頃まで平田屋川という川が流れていました。

平田屋川は、天然の川ではなく、毛利輝元が広島城を築城する際に造られた運河です。

出雲国平田(島根県平田市)出身の大商人平田屋総右衛門が築城や城下の建設に功績があり、屋敷を賜ったあたりが平田屋町で、近くの川と橋にその名が付けられたそうです。

川の一部は戦前に埋め立てられましたが、戦後、昭和30年頃完全に埋め立てられるまで残っていました。

昭和30年頃までの並木通り

平田屋川埋め立て後の並木通り

  並木通り商店街振興組合

  広島市中区三川町3-12-6F

  TEL(082)245-1448

  FAX(082)245-1899

  namiki@chushinren.jp

「イノコ大福フェスタ」

2013年11月2日~3日に開催しました!

また、2014年からは、

「大イノコ祭り」として

開催。

2020年度、2021年度は新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止となりました。